「売る」から「つくる」
立場をかえて
鉄の島で伝統のものづくりを守る

相伝ー心のはなし 鋏のために

鋏(ハサミ)についてあなたはどれほどのことをご存知だろうか? 私たちの暮らしの中で、鋏ほど身近な道具はないし、だからこそ何も考えずに日々手にしているのではないだろうか。鋏について特別知らなければならない情報など何もないのだ。もう一つ質問を重ねる。あなたの身の回りには何丁の鋏があるだろうか? この問いには「ん?」と思われる向きも多いだろう。鋏は〈何本〉ではないのかと。鋏は〈丁/挺(ちょう)〉と数えたが、最近では〈本〉と数えるようだ。それはさておき、どれほどの鋏をお持ちだろうか。鋏など持ってはいないという人は滅多にいないだろう。あって当たり前。そんな鋏の話をしよう。

種子島の海岸

鉄の島への贈り物

1543年、種子島に漂着したポルトガル船により2つのものが伝えられた。1つはその後の日本の形を決定づけることになる鉄砲であり、これはあまりにも有名だ。もう1つがその船に乗り合わせていた明国の鍛治師により伝えられた鋏鍛治の技術だ。後の人はそれまでの鋏を和鋏と、新しいこの鋏を唐鋏と呼んだ。やがてこの鋏は鉄砲が「種子島」と呼ばれるのと同様に「種子鋏(たねばさみ)」と呼ばれるようになる。
もともとこの島は昔から良質の砂鉄が海岸に出ると豊富に手に入り、それを材料として優れた鍛造技術が発達していた。たとえば能野(よきの)の海岸を歩くと砂浜に一目で砂鉄だとわかるマーブル模様が入っているし、鉄浜(かねはま)という鉄に由来する地名も残っている。優れた材料に、優れた技術を持った鍛冶師、優れた鍛造技術。新たに伝えられた2つのものを模倣し独自のものにつくりあげていく環境は整っていたに違いない。それはまさに鉄の島への贈り物だった。
この唐鋏を改良したものが「種子鋏」だと言われている。しかしそれを裏付ける資料・文献はなく、あくまでも口承でしかない。その製法は、極軟鋼に高炭素鋼(ハガネ)を鍛接する日本刀の製作技法を取り入れた伝統的な鍛冶技術で、抜群の切れ味と精巧なつくりを実現するには、刀剣をつくるに等しい熟練した技術が必要とされる。 種子島だからこそ実現できた技術だ。

田畑実さん

現在、その技術を受け継ぎ種子鋏をつくるのは2軒のみだ。今回訪れた田畑刃物製作所はその1軒で、鍛冶師・田畑実(70歳)さんとその妻の久恵さん、実さんの弟俊郎さん(65歳)が伝統的な種子鋏・種子包丁の製造に汗を流している。
案内してくれたのは田畑刃物製作所の販売を一手に担う池浪刃物製作所の恒川拓希さん(36歳)だ。これまでは全国各地に出張して田畑さんが打った種子鋏・種子包丁の販売に専念してきた。
販売に専念するなら〈製作所〉はおかしいのではないかと思う人もいるだろう。これは伝統的な産物を扱う世界では珍しいことではない。例えば着物の世界。糸繰りから染織りと分業で進められてきた作業を、最終的に染織メーカーという〈製作者・社〉が窓口となり問屋・商社を経て消費者に届けられる。いわゆる伝統産業品の世界では一般的に見られるスタイルだ。池浪刃物製作所は、そのものづくりの最終段階を担い、その後の流通の窓口になる。種子鋏の場合、最終段階とは鍛治工房から届いた片刃同士を組み合わせて、調整した上カシメで締め鋏として完成させる。これも重要な工程の一つだ。

池浪刃物製作所恒川拓希さん(撮影:小早太)

田畑さんからこの状態で納品され、池浪刃物製作所で1丁の鋏として仕上げられる

しかし、恒川さんは
「10年かけてでも打ち刃物を仕事にしたいと考えるようになりました」
と照れたように笑った。売る側からつくる側へ軸足を移したい。つくることを学び、身につけたいというのだ。その理由をたずねた。
「北海道から鹿児島まであちこち販売に出向いていると、田畑さんの刃物は素晴らしいという評価をいただきます。売っている僕もうれしいし、間違いないものを売っているという自信もあります。そうすると、きちんと売ることはもちろん、ものづくり自体もちゃんと受け継いでいきたいと思うようになったのです。じゃあ時間がかかってもちゃんと学ぼうと」
「10年頑張ればなんとかなるとは、こっちから言った」田畑実さんが言った。「辛抱できるかな、我慢できるかなという不安はあるが、彼なら頑張れるんじゃないかと思って私たちも受け入れたんです」
そもそも後継者難に喘いでいた。最盛期は太平洋戦争前の昭和10年頃で、生産業者27、従業者64人という記録がある。しかし現在島内で製作しているのは2軒だけだとは述べた通りだ。種子鋏の継承・存続は危機に直面していたと言ってもいいだろう。
唐鋏発祥の地であるにもかかわらず、種子鋏の系譜は潰えようとしていたのだ。
「若い人も興味は持っていると思います。たまにですが、うち(池浪刃物製作所)にも修行させてくださいとか、働かせてくださいっていう声はかかりますから。でもなかなか難しいんですよね。当然駆け出しの僕に指導ができるわけもないですから」と自嘲する恒川さん。
「難しいのは呼吸だね。学ぶ、弟子になるといっても仕事をするわけだから。仕事をするもの通しの呼吸、仕事場の空気空気っていうのがあるからね」と実さん。「うちなら3人で20も30もある工程を手分けして切れ目なく進めるわけです。それには呼吸ってものがとても大事で、いちいち口で説明するんじゃなくて空気で伝えるというか……。反りが合わないとだめだね。恒ちゃんならうまく行くだろうなって思えたからね」
家族3人の現場、寸分違わぬ呼吸の合い方が醸し出す空気の中に家族ではない彼が入るのは難しいのではないかとたずねると、実さんは笑って言った。
「息子みたいなもんだからな。でもな、誰かが人生をかけてやってきたことを、肉親やという理由だけで継ぐ、継がせるというのはおかしいと思う。情熱とかやる気のある人間が継ぐのが一番やわな。才能というのは、コツコツ続けることで備わってくると思うよ」と。
跡を継ぐ上で一番大切なことはと、改めてたずねた。
「執着心、こだわりやな。それと情熱やろ」
側で聞いていた恒川さんの表情が引き締まった。
500年かけて紡いできて途切れかけた伝承の糸が、繋がれた。

材料を熱して叩く

形を整える

ベストカップルの2枚を決める

ベストカップルの相番を打つ

穴をあける

ミナジリを曲げ

腕を曲げる

さらに腕を曲げる

裏をひき(研ぎ)焼きを入れる

磨き仕上げる

仕上げの途上

すり合わせを調整する

叩き、曲げ、焼きを入れる

本来打ち刃物は、極軟鋼に高炭素鋼(ハガネ)を鍛接する日本刀の製作技法を取り入れた伝統的な鍛冶技術でつくられる。
しかし、田畑さんの工房では地金と鋼を合わせた小さな金属板(利器材/複合材)を使う。これは鍛冶職人が作業にかかる段階で、既に下地となる鉄に鋼が一体になっているので、改めて鋼を鍛接する必要がない。この初期の鍛接・鍛造という工程は非常に難しく、手間もかかる上にロスも多くなるため、ここを省略できることは時間と労力の節約というメリットがあり、利器材を使う鍛治工房は多い。鍛接技術を有する鍛冶職人が減っていることも理由の1つに挙げられるだろう。
一般的に利器材でつくられる刃物に比べると、鋼を鍛接した刃物は鍛冶職人が叩く回数が多くなり切れ味がよりよいとされてきた。しかし、利器材も鋼材メーカーの試行錯誤により品質が向上し、決して遜色のない切れ味を実現できる。費用対効果という側面ではある意味合理的であり、高品質の製品を低価格でという時代の要請に応えているとも言える。
恒川さんは言う。
「確かに伝統的なやり方ではありませんが、鋼を鍛接した刃物だけを本物だというのは、ちょっと違うと思います。比較すること自体乱暴な話だけど、包丁も鋏も100均ショップに行くと売っているでしょ。そういうものと本物、本格というものとを比べると、これはもう全然違ったものだというのは当然です。でもね、いい利器材を使ってちゃんとつくったものは本物、本格の刃物と遜色なく使える。本格的な打ち刃物って胸を張っていいと思います」
彼にとって「本物」の価値やそれに対するニーズは時代の中で変わりゆくものであり、それをきちっと汲み取ることこそがものづくりの第一歩だと考えているようだ。これは販売を中心に種子島鍛治の歴史や製法に向き合ってきた結果だとも言える。
「簡単に言うと田畑さんのところでは、材料を熱して、叩いて、曲げて、研いで、磨いて、鋏としての形を整え、焼き入れ、焼き戻しという熱処理をして強度をもたせるまでをやってもらいます。鋏としての部品を完成してもらい、それをうち、池浪刃物製作所でアッセンブリーして1本の鋏に仕上げます」

穴あけをする俊郎さん

その隣で腕曲げをする実さん

実さん、俊郎さん、久恵さん3人の鋏をつくる作業を見せてもらった。会話はほとんどなく、黙々と手を動かし続ける。別々の作業をしていても、それぞれが何をしているのかきちんと共有されている。ぴったり合った呼吸のもと進む作業は美しくさえある。
小さな金属片が真っ赤に熱せられ繰り返し叩かれ形を変えていく。あたかも粘土のように柔らかくしなやかに。そうして最後には美しい鋏の1片が現れる。それを箱に立てて並べると、別個につくり上げたにもかかわらず、精緻に同じフォルムを繰り返す。
「だけど……」と恒川さんは真剣な面持ちで言った。「叩いて形をつくることより、その後の熱処理が難しいんですよ。焼き入れと焼き戻しという作業があるんですけど、これが言ってみれば一発勝負でやり直しがきかないんです」
この「焼き入れ」「焼き戻し」は鋏の切れ味を左右し、2枚の刃を同じ硬度に仕上げるための重要な工程なのだ。実際の作業についてはつぶさに見られなかったので資料に頼った。
「焼き入れ」は400度に熱した液状の鉛に浸して温度を上げ、さらに800度の鉛に浸す。そして水に浸けて一気に冷やすのが「焼き入れ」で、これは鋏に硬度を持たせるための工程だ。その後180 度に熱した焼き戻し油で1時間「焼き戻し」をする。これは鋏に粘りを持たせるための作業だそうだ。
「この2つの工程がうまくいかないと鋏に命は込められないと田畑さんは言います」(恒川さん)
焼き入れ、焼き戻しを終えた鋏は、鋏特有の適度な湾曲やねじれを与える工程を経て、研ぎにかけられる。その後2片のパーツを目釘でカシメ合わせ1組の鋏に組み上げる。この時組み合わせた刃と刃がベストの状態で擦り合うように調整する。カシメ合わせの強弱だけでなく、湾曲・ねじれ具合も含めて調整するのだ。
2片の組み合わせはその2片だけの組み合わせで、他のものとの組み合わせは成り立たない。種子鋏は1組1組がベストマッチ、つまりベストカップルなのだ。

仕上がった鋏はベストカップル

自分自身に焼きを入れる!?

恒川さんは全国のデパートを中心に、種子鋏、種子包丁の販路拡大に力を入れている。
池浪刃物製作所で仕事をするようになったのは2018年。もともと名古屋でレコード店の店員をしていた。社長池浪寛さんが名古屋のデパートで催事販売をしていた時に手伝いに行ったのがきっかけだった。2017年12月に地域おこし協力隊員として西之表市に移住した。
「社長は自分の代で終わらせると言っていましたが、お客さんとのやりとりを見ていて、勿体無いなとすごく思ったんです。で、僕にやらせてくださいと申し出たんです。許されているかどうかもわからない。半ばおしかけで島に来た時も、やらしてもらえるかどうかわからなかった。1年くらいかかったかな、地域おこし協力隊に応募して、市役所の仕事しながら、説得するわけでもなく……。そうこうしていたら社長が体調崩しちゃって、催事に行けなくなった。じゃあ僕が行きますとあちこち行きだしたんです」
恒川さんは小さく笑いながら言った。販売催事に出向いている時はとても充実しているとも。
「種子鋏、種子包丁へのニーズはあると思います。刃物自体へのニーズもあるし、研ぎとかメンテナンスという意味でもニーズはあります。一度本物に触れると、本物を使い出すと、二度と100均のものには戻れないでしょう。ちゃんとしたものでないダメだという思いになるはずです。使えないと。うちの種子鋏たちは、ものは確かです」
種子鋏、種子包丁そのものを見、ものづくりの工程を見、そしてものづくりにかける思いを見てきた。生活のすべてをものづくりに捧げる人々の姿であり、時間と手業の結晶としての刃物たちだった。
「でもね、1本つくるには手間がかかるし、今の田畑さんのキャパシティではつくれる本数も限られていいます。種子鋏、種子包丁をもっと知ってもらい、使ってもらうには数が必要なのです。そうして数を揃えて全国の物産展や百貨店に出店して手に取ってもらって、良さを知ってもらうことが大切だと考えています」
恒川さんは、そのものづくりを支えたいと、販売だけではなく鍛治職人の手業を学ぼうと決意したのだ。
しかし不安は大きい。
「3人の呼吸がぴったり合っていて、僕なんかが入り込む余地があるのかなと、ちょっと不安を感じないこともありません。ただただ反りが合わないということだけじゃないですからね。反りが合わなくてそれが品質のダウンにつながるということもあるでしょう。過去にもそういうことで大変なことがあったと聞いています。少人数でつくっているので、働く人の反りが合う合わないはすごく大事かなと」
傍で実さんが笑って言った。
「不安と言えば、迎え入れるこちらの方が大きいと思う。でも恒川さんなら大丈夫だと思うからね」
たった3人の現場。寸分違わぬ呼吸の合い方。1人呼吸を乱す人間がいるとすべてがダメになる。当然の話だ。そこを大丈夫だと認めてもらったのだ。
「それで4人で動けるようなスペースをつくってもらいました。もう後戻りはできません。そのためにも自分自身に焼きを入れないとね。粘り強く頑張ります」
恒川さんは真顔できっぱり言った。
彼は今鉄の島への贈り物をしっかり受け継ぎ、鉄の島からの贈り物として世界に発信しようとしている。

火床 野鍛治の仕事場

ひとつの文化が消える時

いくつもの伝統的技術が人知れず姿を消している事実を、どれほどの人が知っているだろうか。感覚として、経済として成り立たなくなったから、実効性が低くなったもので、文化的価値がそう高くないものに関しては、消滅も止む終えない。そのくらいの認識はあるかも知れないが……。
種子鋏の取材に入る少し前のことだ。島を歩いていて一人の鍛治職人に出会った。70歳でフルマラソンを完走するオヤジさんがいると聞いて、会いに行ったのだ。その人が鍛冶屋だとは知らなかった。話をするうちに「暑くなった鉄を打つように」とか「鋼を打つ」という言葉がポンポンと飛び出し、もしやと思ってたずねた。
「ひょっとして、オヤジさんは鍛治職人ですか?」
「ああそうだよ」
「じゃあ鉄砲鍛冶の末裔で、いまは包丁とか鋏を?」
「いやあ、おれっちゃ、野鍛治だ。代々野鍛治、クワを打ってるんだ。村の鍛冶屋だよ。もう種子島ではおれだけだ」
マラソンの話はそっちのけで話は進んだ。
仕事場を見せてもらった。鍛治職人というと、注連縄を張り清められた鍛治場で白装束を纏い、頭には烏帽子を被り、鉄を打っているとばかり思っていた。しかもまわりに弟子を控えさせて。

野鍛治の仕事場

だが彼の仕事場は、そんなイメージの対極にあるものだった。五坪ほどの薄暗い仕事場には、ブロックで囲われた火床以外に材料や半完成品を無造作に並べる棚くらいしかなく、やっとこ、金槌、金床などの道具は火床のまわりに散乱していた。天井のないトタン屋根には、裸電球がひとつぶら下がっていた。
「汚いだろうがあ。ずっと昔からこんなだよ」
彼は大声で笑うと火床に種火を入れ、炭をかき入れた。仕事場は火花であふれた。きれいだった。まるで花火だ。
代々彼の家が打ってきた野打ちグワは、極軟鉄の本体の先を、種子島で採れた砂鉄製の鋼でコーティングしたものだ。形状も先が尖っていて、全国的に見てもかなり珍しいものらしい。石の多い粗悪な種子島の土地を耕しても長持ちするようにできているのだ、と彼が教えてくれた。言葉にすると簡単だがとても高度な技術で、打ち刃物のように鋼を鍛接するのではなく、本体の上に鋼を乗せ一緒に火床に入れて、鋼だけを溶かし本体に流すのだ。いまこの技術を持っているのは彼だけだと、ある大学の調査で明らかになった。
「大学の先生やら、研究者っちゅうのが、よう見にくる。温度やら時間を聞かれるけど、おれっちゃそんなことわからん」炎を見つめながら彼は笑う。「炎の色、やっとこを持ったときの熱さ。それと、勘だ、勘」
炎の中で鋼が溶けだした。間をおかず炭をかいていた鉄棒で鋼を全体に流していく。片方の手は、本体といっしょに火床に入れたやっとこを握っている。うまく流れ出たことを見極め、火床から出す。クワ本体は土間に放り、冷ます。やっとこは水の中へ。当然のことだが水は一瞬ぶくぶくと泡を立てる。だが彼の手に軍手ははめられていない。手を見せてもらった。意外だったが柔らかいきれいな手だった。「熱くないですか」と聞くと「熱いにきまっとろうが」と豪快に笑う。
民俗学的資料としても貴重だというそのクワの値段をたずねた。
「5000円しないよ。民芸品でも、芸術品でもないからな。農家が使う道具だ。値段を上げたら、買えんだろうが。第一、金っちゃ、そんなにいらんや」
種子島でたった一軒残った農機具専門の鍛冶屋だ。島中の農家が彼の打ったクワを使っている。だから島中の農家の顔を知っている。
「後継者はいるんですか?」
「いやあおれで終わりだ」そのときはじめて彼の表情が曇った。「こんな3K、4Kの代表みたいな仕事、継ぎ手はおらん。だいたい鋏鍛治、包丁鍛治でも後継者に困ってるのに、野鍛治なんて……」
「じゃあ、農家が困るじゃないですか」
「いいよ。農家も年寄りばかりで減っていくし、若い農家は機械を入れて、こんな野暮ったい道具は使わんからな。そのうちクワもいらなくなる……。それになんの援助も補助もないからな」
笑顔にはさっきまでの豪快さはなかった。
彼が金槌を置き、火床の前から離れる時、確実にひとつの文化が消える。それは伝統的な農法を受け継いできた種子島の農家の消滅にもつながっている。技術革新というものが、それにまさる文化を創出するとしたら、それはそれでいいのかもしれない。しかし、失ってから素晴らしさに気づくことが、この国では多すぎると誰もが多かれ少なかれ感じているのではないだろうか。
それは、西南の小さな島で起きている事実だが、これはこの国のあちこちで起きている事実でもあるのだ。

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